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本能寺の変2・ホームメイトFC藤井寺店より抜粋|株式会社アクアコーポレーション

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2019/07/05
本能寺の変2・ホームメイトFC藤井寺店より抜粋

本能寺の変
疑問点と好き放題に書いてみました。
5月16日
羽柴秀吉より毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が備中高松城へ後詰、援軍を知らせる書状が安土城、信長の元に届く。
信長、秀吉に返書をしたためる。信長自らの出陣の旨を伝え輝元を征伐、畿内衆[光秀、順慶、藤孝]摂津衆[恒興、清秀、右近]を引き連れ着陣するまで戦は控えるようにとの指示を出す。
5月17日
光秀、家康の接待後、坂本城に帰城。細川、池田等もそれぞれ国もとへ帰城し信長の指示を待つ。
5月21日
家康、上洛。
5月25日
坂本城の光秀に信長から書状が届く「6月3日、4日には中国に向け出陣、光秀は馬廻りと共に京から共をせよ]
5月26日
光秀、信長の行動を把握し、坂本城から丹波亀山城へ。
5月27日
光秀、愛宕山に参詣、一泊。信長の日程、行動を知ればこそ一泊もでき明日の連歌の会も行う事が出来る。
5月28日
連歌の会の後、丹波亀山城へ帰城。
堀秀政隊、使者[軍監]として総勢800名安土から中国に向け出陣[内300名は信長馬廻り]
信長、光秀に書状
「29日に上洛致す、2日[3日か]に上洛すべし」
光秀、書状を持参した者から信長が思いのほか少数で本能寺に入ったと情報を得る。
5月29日
家康一行、京から堺へ。
信長上洛、本能寺へ(翌日が6月1日)
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疑問①
光秀が本当に6月2日に中国に向けて出陣すれば、たとえ数日とはいえ、秀吉の組下に取り込まれる事になる。信長が淡路島に立ち寄るというのであれば光秀到着後10日程は遅くなる。秀吉が北陸方面へ柴田勝家への与力として出陣し[上杉謙信には勝てない等]難癖を付け信長の許可も得ず、前線離脱している。秀吉は勝家の実績となる組下が嫌だった。信長は光秀に中国に向けて先行させたであろうか?信長、光秀が武田征伐の時と同様の動きなら問題が無いように思えるが?
疑問②
6月2日に光秀が中国に向けて出陣なのであれば、その与力[寄騎]となる池田、高山、中川隊は本来既に中国に向けて出陣していなくてはおかしいのではないか?
光秀の与力大名が光秀隊の後方を進軍するなど考えられないが?
地理的にも摂津衆が先に中国へ進軍出来る位置だと思うが?
摂津衆出陣は2日の夕刻又は3日だったか?
本来の陣形、地位、立場で考えれば
[先鋒]高山隊、中川隊、各1500名
[次鋒]池田隊、3500名
[中堅]筒井隊、5000名[一部1000名は6月2日信長の御供として本能寺へ]
[副将]細川隊、5000名[地理的に後備え]
[大将]明智馬廻り隊5000名〜=信長本隊。

疑問③
信長は少数で本能寺に入ったが信長自身の馬廻りは何処にいたのか?
研究者は此処をハッキリさせてほしい。
安土に留守部隊を残してどれだけの馬廻りが御供できたのか?蒲生氏郷に動きはなかったようだし。
本来の信長の馬廻りなら5千から1万。多くの馬廻りは堺の四国攻め、甲斐、上野等に分散されてはいなかったか?

疑問④
信長が光秀隊の馬廻りが京に来る事は当然の事と考えてはいなかったか?
(来るものとして表現しています)
小姓衆は本能寺に近づく明智隊に夜が明けた6時頃に気づかなかったのか?
本来、来る者が来たのであれば警戒する必要もないが。

疑問⑤
実際に老ノ坂、沓掛に行ってみました。明智隊の2000本は有るであろう松明が本能寺、妙覚寺から見えたかどうか?老ノ坂は谷間を通り見えないと確認。確認したが今と昔は違う。直接見えなくても松明の灯りが夜空に浮かばなかっただろうか?お偉い学者さんは実験で調べてほしいが?

疑問⑤➕1
順慶隊の一部も信長に合流ではなかったか?2日に京に向けて進軍していたと書かれていた書籍があったと思うが?これは本当だったか?

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